日本らしい優しさを小説「蜘蛛の糸」で思い出す

童話を読み返す
イラスト

自然との協調を重んじる日本らしい優しさ。その根端の一つ芥川龍之介作:「蜘蛛の糸」。
優しくなれない自分が嫌だ、自分はなんて非道い人間なのだろうと思うことは誰にでもある。
今の世の中は人と人とのつながりが細くなり、助け合いをするような機会は減り、
感謝されることも減った。
むしろ罪ばかり重ねているのではないか。
そういう時は無理に人に優しくならなくて良い…自然や小さな命に対して優しくなれば良いと思う。

あらすじ

静かで荘厳な極楽と、その遥か下方に罪人達の嘆息が響く地獄の底、二つの世界がある。
その極楽からお釈迦様が大泥棒の罪人、犍陀多(カンダタ)を見つける。
カンダタは生前に林の中で地を這う小さな蜘蛛を助けたことがあった。

これも小さいながら、命あるものに違いない。

お釈迦様は良いことをした報いにカンダタへ1本の細い蜘蛛の糸を極楽から垂らす。
カンダタは糸に気づき登るのだが、途中で他の罪人達も登り初めているのをみて降りろと言う。
その瞬間に糸は切れ、また地獄の底へ落ちるのであった。

一度だけ良い行いをした犍陀多かんだた

カンダタは生前、人を殺め、火事を起こし、盗みを働き生きていた。
本人にとっては生きるために必要でやったことなのかもしれない。
しかし、地獄で蜘蛛の糸を見たカンダタは
「しめた!しめた!」と笑って浅ましい描写がある。
ここで読者は思う。やはり根からの卑しい罪人なのだと。

そんなカンダタでも蜘蛛という小さい命に対して一度の優しさを見せた。
たった一度だけ、もし他に小さな命を救ったのであれば
後述する蜘蛛の糸は2本や3本いや、もっとだったかもしれない。

「蜘蛛」と「切れた糸」

極楽に居た蜘蛛はきっとカンダタが助けたときの蜘蛛ではないだろうか。
お釈迦さまが来た時たまたま偶然そこに蜘蛛が居たとは思えない。
蜘蛛の視点のみにおいてカンダタは善人であり、恩人であり、助けたい人だろう。

糸はなぜカンダタの上で、あのタイミングで切れたのか。
それはお釈迦さまが切ったのだと考える。それについては後述するが
物理法則ではないのは明らかだ。
糸は狙ったかのようにカンダタの真上で切れる。
物理法則で考えるならば支点で切れるため付け根で切れるだろう。
切れるタイミングについては上る罪人の量で切れるなら無論、とっくに切れているはずだ。

お釈迦さまの思い

お釈迦さまは一回の良い行いだけで極楽に導こうとしたとは到底思えない。
きっと試したのだ。
カンダタがもし、生きるために罪を重ねただけで実は優しい心の持ち主だったこと、
地獄の底まで落ちて反省したことを期待したのではないか。
もし、カンダタが蜘蛛に対して「これも小さいながら命あるもの」という優しさを
同じ地獄の底にいる罪人達へも「罪人ながら同じく生きたもの」と思えたのなら結果は違ったはず。

試した結果についてお釈迦さまは悲しい顔をされるが、ぶらぶらと歩いて行ってしまう。
極楽は何もなかったかのように荘厳なまま。

命あるもの

どんなに小さくても、汚れていても、忌避されても、悪人でも。
たまたま偶然同じ時間、同じ地球、同じ地面を踏みしめて生きている。
人から忌み嫌われている虫でも、生きるため子孫を残すために一生懸命だ。
一般的に蜘蛛は人間から嫌われている。
それは勝手に家に入るし人様の家でどこでも糸や巣を張るし見た目が悪い。

「俺のもんだぞ、誰に聞いて入ってきてるんだ」と殺めるのがカンダタ。
「命あるもの、かわいそうだ」と逃がすのもカンダタ。

害のない命は逃がしてあげたいが、そうもいかないときには供養の心を持ちたい。

紙一重、表裏一体である。ところで「陰陽」のシンボルについて受け売りだが紹介しておく。

カンダタは右側だったのだろう

白は善とする。黒は悪とする。
白の中に一点黒があるし黒の中には一点白がある。
どんなに善人でも一点の悪はあるし、
どんなに悪人でも一点の善はあるという意味の図。

この陰陽の図はどの人間にも当てはまると言われている。
白と黒のS字の境界でうまくバランスを取るのが良い。

まとめ

きっと大事なのは想像力。
相手をおもんばかる日本のなせる業なのだと思う。
日本には八百万の神という教えがある。物や人、動物、虫すべてに神が宿る。
子供のころから物を乱暴にすると「物が痛いって言ってるよ」と教わる。
この教えこそが相手や自然、動物、虫、物に対して思いやる気持ちを育てるのかもしれない。

どんなに憎いと思っても一度冷静に相手の立場・気持ちになってみることで
背景が分かってちょっと情が湧く。日本は特にこの手の能力が高いのだ。
その情を感じ取れたら少しだけ優しくできるようになるだろう。

ちなみにごんべえは「蚊」についても多少譲歩している。
好きか嫌いかでいえば心底憎い。
1シーズンに多くて3回までは許す。
なぜなら刺された1年は思い病気を患ってない気がする。
かなり譲歩して「天然ワクチン接種」ということにしている。
今年は8回刺された。次見かけたら徹底的にやろうと思う。

別の視点や考察、人生哲学などコメントいただけると幸いです。

コメントを残す コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


コメント

タイトルとURLをコピーしました